大谷大学社会学部コミュニティデザイン学科 鈴木ゼミ 12月4日網野プロジェクト
2022年12月4日に網野町に行ってきました。魚班、プラごみ班、除去機開発班、砂班に分かれて活動しました。プラごみ班と砂班は、箱石浜に行ってきました。
現地では天候が悪く厳しい状況でしたが、プラごみ班はペットボトルを集めました。ゴミがかなり多くごみ袋に入りませんでした。集めた結果中国、日本、韓国の順でペットボトルが多かったです。マブ川よりもペットボトルが多かったです。
砂班は、箱石浜の6ヶ所で調査を行いました。浜の波打ち際から陸に向けて一直線上に1メートル×1メートルの範囲の表層の砂に含まれるマイクロプラスチックの調査をしました。上の写真が調査時の写真です。
この調査からマイクロプラスチックが多く発見されました。
魚班は、遊漁港で活動しました。しかし、天候が悪く、海が荒れていたため思うような成果を上げることができませんでした。
除去機開発班は、小浜で除去機を完成させて試運転をしました。
当日は海が荒れていて寒い中の活動でしたが、それぞれの班で成果を上げることができました。
大谷大学社会学部 網野プロジェクト2022年7月10日
2022年7月10日に網野町小浜に行ってきました。除去機班は小浜で活動しました。
今回除去機班では、砂浜に含まれているマイクロプラスチックと砂を分けるための機械を持参し、マイクロプラスチックと砂を分ける活動を行いました。
この機械では、前からも後ろからも引っ張ったが砂が全く入らなかったので分けることができませんでした。スコップで砂をすくい、ふるいに入れてモーターを砂に近ずけることで網が振動して砂が落ち、マイクロプラスチックだけが残りました。残ったゴミとプラスチックをゴミ袋に入れて今後調べます。
海に浮かんでいるマイクロプラスチックごみを除去するために装置を持参しました。まず、子供用プールにバケツ二つで海水をすくってプールに海水をためました。たまったら、装置を使って水面に浮かんでいるマイクロプラスチックごみを吸い取りました。
大谷大学社会学部 鈴木ゼミ 網野プロジェクト
今、世界中の海岸において、大量のプラスチックごみが漂着しています。プラスチックは有機系化合物を吸着しやすいため、生態系に影響を与え、ひいては人の体内に蓄積する可能性があります。地域の環境問題を解決するために、調査や研究をしています。
鈴木ゼミでは特に、マイクロプラスチックの研究を京都府北部の京丹後市網野町で行っています。
網野町は丹後半島の突端部分の西側に位置していて、日本海に面しています。網野町は丹後ちりめんの生産地で有名です。
2022年5月15日に網野町に行ってきました。魚班、プラごみ班、除去機開発班、砂班に分かれて活動しました。
さかなはんは遊び漁港で魚を釣りました。
魚班は、遊漁港で釣りをし、メバル1匹、ムラソイ2匹、カサゴ3匹を釣りました。
今後、大学に帰って、魚の内臓にマイクロプラスチックが含まれているか調べていきます。
除去機開発班は、マイクロプラスチックを除去する機械を作るために、事前調査としてマイクロプラスチックと砂を分ける作業を行いました。目の開きが0.5㎜のふるいを持って行き、マイクロプラスチックと砂を分けようとしましたが、かなり砂が残る結果となりました。
砂班は、琴引浜の6ヶ所で調査を行いました。浜の波打ち際から陸に向けて一直線上に1メートル×1メートルの範囲のマイクロプラスチックの調査をしました。上の写真が調査時の写真です。
この調査からマイクロプラスチックが少なく、大きめのごみが多かったです。
同様に調査を行います。
プラごみ班は、マブ川の漂着ごみを調べました。特に、ペットボトルを集めて、文字をみて、どこの国から来たのか調べたところ韓国、日本、中国の順で多くみられました。同様に大きなゴミを収集して、マブ川をきれいにしました。
これからも網野町に行って、マイクロプラスチックの調査やプラスチックの漂着状況を調べに行きます。次回は2022年7月10日行って、現地活動をするつもりです。
大谷大学 文化環境ゼミ3回生 2019年度後期
有田みかんのおいしさの秘密
今回は前回に続き新堂地区と千田地区、2つの場所で露頭を探し、その後農家さんに協力してもらい、みかんに含まれる鉄とマグネシウムを調査したいと思います。
令和元年9月9日私たちは新堂地区に行きました。車で山道を通っていると緑色岩・緑色片岩を見つけることができました。
その後みかん博物館の方に話を伺う機会をいただいたので、博物館内のみかんの歴史や文化について、また有田市のみかん農家さんの事情など現地に住んでいるからわかることなど、教えてもらいました。
9月10日にはみかん博物館の方に教えてもらった、みかん海道や高田での調査を行いこれらのものが見つかりました。
みかん海道のチャート
この後高田のみかん畑に行き、赤色チャートの石が多く使われている石垣を発見しました。
石垣に使われている赤色チャート
9月11日には高田のみかん畑石垣で見た赤色チャートの露頭を探しました。その結果中腹のミカン畑で赤色チャートの露頭を見つけられました。赤色の由来は酸化鉄だということが分かっています。その結果みかんのおいしさには鉄分が関係しているのではないかとの考えがより強くなりました。
赤色チャートの露頭
次に11月30日と12月1日にはみかん農家さんに協力してもらい、みかんの収穫体験をさせてもらいました。
協力してもらったみかん農家さんのみかん畑
まとめとしてはそれぞれ違う種類の岩石が見つかりました。またみかん農家さんのボランティアを経験することでどれだけ手間暇をかけてみかんを育てているのかを実感することができました。今後は別の場所に調査しに行き、多くのデータを集めたいと思います。
大谷大学 文化環境ゼミ 2回生 2018年度後期
姫路城の石垣調査
平成30年11月28日に姫路城を訪れ、石垣の調査を行いました。
今回の調査目的は国宝である姫路城の石垣を調べることで、どのような種類の石垣が使われているのかや、積み方、その石材がどこから来たのかを調べることです。
今回は京都駅から乗り換え無しで姫路城のある姫路まで行きました。
姫路城の歴史は、1333年〈元弘3年〉赤松則村が姫山に基礎となる砦を築き、1346年〈正平元年〉赤松貞範が本格的に城を築きました。その後山名持豊、赤松政則、黒田重隆へと城主が変わっていきました。そして大河ドラマで有名になった黒田官兵衛は1546年〈天分15年〉に姫路城で生まれました。その後豊臣秀吉の毛利勢討伐に向けての拠点になり、大坂城が築城されると弟の羽柴秀長が姫路城主になりました。その後木下家定、1600年〈慶長5年〉関ヶ原の戦の後には池田輝政が城主となりました。1618年〈元和4年〉には本田忠正が西の丸を築き、今の姫路城の形が完成しました。それからは改修工事が、明治、昭和、平成と続き、平成の改修工事が終わった2015年に、今の白い姫路城へとなりました。
私たちは姫路駅に11時半ごろにつき、先に商店街で昼食をとる事にしました。
駅から数百メートルほど歩くと姫路城が見えてきます。
大手門から中に入るとまずは切り込みはぎを見にいきました。この積み方では、加工された石材が用いられています。
その後菱の門東方にある野づら積みでできた石垣を見に行きました。 この写真に見られるように大小様々な石が積み上げられているのが特徴になっており、瓦まで混じっていました。
そして受付を抜け、いの門、はの門へと行き、星型のマークが化粧櫓のあたりにあるという事前情報から見に行きますが、残念ながら見つかりませんでした。
次に姥ヶ石を見に行きました。建設時、石材が十分に集まらない時に、一人の老婆が石臼を持ってきたことで有名な石です。網の中にある白い石が姥ヶ石です。
そして天守閣を登り、本丸に降りて、天守閣に使われる打ち込みはぎを見に行きました。ある程度同じような大きさの石が積まれていることが特徴的です。
備前門にある石棺を見に行きました。中央にある四角に加工されている石です。
上の写真が掘り出された石棺です。
その道中では四角のマークがある石がありました。昔の城の築城に携わった人が、携わったことを示すために石にマークを彫ったそうです。
次は二の丸にあるお菊井戸へと行きました。
最後に明治、昭和、平成のしゃちほこを見るなどをした後はお土産屋で、休憩しました。
その後JR姫路駅に戻り、解散という流れになりました。
石材の種類は凝灰岩が多く使われていて、積み方としては 大手門から中に入ると左側に切り込みはぎ、菱の門東方の石垣に野づら積みがあり、そして天守閣に使われる打ち込みはぎがありました。
石材の産地は、西は夢前川付近から、東は市川付近など姫山から数kmの範囲内から供給されていることがわかりました。
まとめ
今回姫路城を調査して、石垣には様々な積み方があることを知ることができ、それらが時代ごとに最適化され、見た目にこだわっているなど、お城が時代ごとに変わっていく姿を学ぶいい機会になりました。
大谷大学 国際文化学科文化環境3回生 2019年度前期
有田ミカンのおいしさの秘密
私たち文化環境ゼミ3回生は和歌山県の名産品である有田蜜柑を調べるために、2019年6月2日に和歌山県有田市へ行ってきました。10時21分に和歌山県箕島駅に着いた私たちは、早速有田郷土みかん資料館に行き、有田蜜柑とはどのようなものなのか調べてきました。有田蜜柑の成り立ちははっきりとはわかっておらず、今の所3つの説があります。
1つ目は糸我という場所に元々蜜柑の木が自然に生えていた説です。この説は糸我稲荷神社に伝わる本に、約580年前に蜜柑の木が自然に生えていたと記されていました。糸我荘の神田池(宮田池)という場所に、あった樹の実が、蜜のような味であったことから「密柑」と呼ばれ、近くの山の畑へと移され、広まった説です。
2つ目は伊藤孫右衛門が持ってきたという説です。この説は伊藤孫右衛門という人物が今から約440年以上も前に、九州から蜜柑の苗木を2つ持ってきて、大きく育てると苗木を増やしていき、今のような蜜柑の産地になった説です。
3つ目は紀州徳川家初代・徳川頼宣こと南龍公が、蜜柑づくりを勧めて作らせた説です。今から約400年前に南龍公が和歌山県に住み始めたころに有田郡へと訪れた時、有田郡の人々が山が多く、平地が少ないために貧しい生活をしていました。そこで南龍公は、熊本県八代から小蜜柑の木を取り寄せ、領地で育て、大きく成長させるとその木を有田に移し、育てることを勧めたことで広まっていった説です。
どの説が正しいにしろ、古い時代からこの町で大切に育てられてきたことがわかります。
また、有田の蜜柑には2種類あるとされ、紀州蜜柑と温州蜜柑と言われています。紀州蜜柑は小ぶりで、酸味が少なく、香りがいいですが、種が多いという特徴を持っており、温州蜜柑は大ぶりで、種がないことが特徴といわれています。これら2つの蜜柑が関係があることまでは調べられませんでしたが、1813年に温州蜜柑の栽培が始まるということが「紀州柑橘論」に書かれていることから、その前から育てられていた紀州蜜柑の品種改良によって、温州蜜柑ができたのかもしれません。
有田蜜柑が広く知られるようになった要因は、1632年に滝川原村の藤兵衛という人物が初めて江戸に四百籠の蜜柑を送ったことからです。今まで出荷していた堺や大坂を含め、江戸へも出荷されるようになり、広く知られるようになったそうです。また紀伊国屋文左衛門という人物が嵐の中、江戸へ蜜柑を船で送ったことなども有名な話としてあります。
積み込み場所のジオラマです。
江戸初期に使われていたとされる蜜柑を運ぶ船です。
その後、私たちは有田市の語り部の方にお話を伺い、地元で蜜柑がおいしいと有名である新堂のほうに実際の蜜柑畑で土の成分を知るべく、向かいました。
駅前の定食屋さんでお昼ご飯を食べました。
ご飯のあとは駅伝いに新堂に歩いて移動しました。
奥に見えるミカン畑が今回調査する場所になります。
まず私たちがミカン畑に登っている途中に目に入ったのがこのモノレールです。正式名称はわかりませんでしたが、山のいたるところありました。なぜかというとその場にいるとわかるのですが、とても坂が急で、ある場所の傾斜になると15度にもなりました。そのため、上の方から蜜柑を持って降りてくるのが大変なためにこのモノレールに乗せて、トラックが止めてある場所までおろしてきます。
現地の農家さんに聞いたことですが、石垣による排水の良さと海からくる潮風が蜜柑をおいしくしてくれることから、山に蜜柑畑を作ったそうです。しかし海に近すぎる場所にはあまり蜜柑畑が目立つほどなかったので、近すぎても駄目なのかもしれません。
蜜柑の木には小さな実がなっていました。
石垣です。変輝緑岩と砂岩が多く見られました。地質図でこの場所は変輝緑岩が分布しているとされているので、砂岩はほかの場所から運ばれてきたものと予想できます。
石垣の中に少しだけみられたシャープペンシルの上にある黒っぽい石は、苦鉄質鉱物を多く含む岩石です。このあたりが地質図によると変輝緑岩が分布しているので、この石はこの場所の石である可能性があります。
石の性質を調べるために沢の中で露頭を見つけました。動かされたような形跡もなく現地の露頭であるとわかります。結果は緑色岩であることから、このあたりの土壌は鉄やマグネシウムなどを多く含んでいることがわかりました。このことから、蜜柑のおいしさは土壌の鉄分と深く関係しているのではないかという考えに至ります。
後期では別の蜜柑畑を調べ、その場所も似たようなものか調べたり、蜜柑の収穫などを体験したいと考えています。
大谷大学 国際文化学科文化環境3回生 2019年度前期
有田ミカンのおいしさの秘密
私たち文化環境ゼミ3回生は和歌山県の名産品である有田蜜柑を調べるために、2019年6月2日に和歌山県有田市へ行ってきました。10時21分に和歌山県箕島駅に着いた私たちは、早速有田郷土みかん資料館に行き、有田蜜柑とはどのようなものなのか調べてきました。有田蜜柑の成り立ちははっきりとはわかっておらず、今の所3つの説があります。
1つ目は糸我という場所に元々蜜柑の木が自然に生えていた説です。この説は糸我稲荷神社に伝わる本に、約580年前に蜜柑の木が自然に生えていたと記されていました。糸我荘の神田池(宮田池)という場所に、あった樹の実が、蜜のような味であったことから「密柑」と呼ばれ、近くの山の畑へと移され、広まった説です。
2つ目は伊藤孫右衛門が持ってきたという説です。この説は伊藤孫右衛門という人物が今から約440年以上も前に、九州から蜜柑の苗木を2つ持ってきて、大きく育てると苗木を増やしていき、今のような蜜柑の産地になった説です。
3つ目は紀州徳川家初代・徳川頼宣こと南龍公が、蜜柑づくりを勧めて作らせた説です。今から約400年前に南龍公が和歌山県に住み始めたころに有田郡へと訪れた時、有田郡の人々が山が多く、平地が少ないために貧しい生活をしていました。そこで南龍公は、熊本県八代から小蜜柑の木を取り寄せ、領地で育て、大きく成長させるとその木を有田に移し、育てることを勧めたことで広まっていった説です。
どの説が正しいにしろ、古い時代からこの町で大切に育てられてきたことがわかります。
また、有田の蜜柑には2種類あるとされ、紀州蜜柑と温州蜜柑と言われています。紀州蜜柑は小ぶりで、酸味が少なく、香りがいいですが、種が多いという特徴を持っており、温州蜜柑は大ぶりで、種がないことが特徴といわれています。これら2つの蜜柑が関係があることまでは調べられませんでしたが、1813年に温州蜜柑の栽培が始まるということが「紀州柑橘論」に書かれていることから、その前から育てられていた紀州蜜柑の品種改良によって、温州蜜柑ができたのかもしれません。
有田蜜柑が広く知られるようになった要因は、1632年に滝川原村の藤兵衛という人物が初めて江戸に四百籠の蜜柑を送ったことからです。今まで出荷していた堺や大坂を含め、江戸へも出荷されるようになり、広く知られるようになったそうです。また紀伊国屋文左衛門という人物が嵐の中、江戸へ蜜柑を船で送ったことなども有名な話としてあります。
積み込み場所のジオラマです。
江戸初期に使われていたとされる蜜柑を運ぶ船です。
その後、私たちは有田市の語り部の方にお話を伺い、地元で蜜柑がおいしいと有名である新堂のほうに実際の蜜柑畑で土の成分を知るべく、向かいました。
駅前の定食屋さんでお昼ご飯を食べました。
ご飯のあとは駅伝いに新堂に歩いて移動しました。
奥に見えるミカン畑が今回調査する場所になります。
まず私たちがミカン畑に登っている途中に目に入ったのがこのモノレールです。正式名称はわかりませんでしたが、山のいたるところありました。なぜかというとその場にいるとわかるのですが、とても坂が急で、ある場所の傾斜になると15度にもなりました。そのため、上の方から蜜柑を持って降りてくるのが大変なためにこのモノレールに乗せて、トラックが止めてある場所までおろしてきます。
現地の農家さんに聞いたことですが、石垣による排水の良さと海からくる潮風が蜜柑をおいしくしてくれることから、山に蜜柑畑を作ったそうです。しかし海に近すぎる場所にはあまり蜜柑畑が目立つほどなかったので、近すぎても駄目なのかもしれません。
蜜柑の木には小さな実がなっていました。
石垣です。変輝緑岩と砂岩が多く見られました。地質図でこの場所は変輝緑岩が分布しているとされているので、砂岩はほかの場所から運ばれてきたものと予想できます。
石垣の中に少しだけみられたシャープペンシルの上にある黒っぽい石は、苦鉄質鉱物を多く含む岩石です。このあたりが地質図によると変輝緑岩が分布しているので、この石はこの場所の石である可能性があります。
石の性質を調べるために沢の中で露頭を見つけました。動かされたような形跡もなく現地の露頭であるとわかります。結果は緑色岩であることから、このあたりの土壌は鉄やマグネシウムなどを多く含んでいることがわかりました。このことから、蜜柑のおいしさは土壌の鉄分と深く関係しているのではないかという考えに至ります。
後期では別の蜜柑畑を調べ、その場所も似たようなものか調べたり、蜜柑の収穫などを体験したいと考えています。